Midori Mitamura

三田村光土里

Permanent Room

パーマネント・ルーム

1999
Solo exhibition
Contemporary Art Factory / Tokyo

Solo Exhibition
Galerie Lichtblick / Cologne, Germany

2000
Exhibition
Voices from Japan / CBK / Leiden, Netherland


    
 



I took my parents' portraits that look like  fashion photos.
They are with somehow fictional atmosphere different from their daily life.
In contrast with it, I re-created old photographs from my family album into furniture -like art pieces.
Images of them are 60s and 70s. They are reflections of the most active days for my parents and our family.  

One round shaped mirror is turned slowly and calmly by electric motor. It indicates a time's stream.
Against it, reflected image in that mirror is not moving.

Therefore people cannot realize the mirror turns.
That is just like our time that we spend in every moment.
      

電動で回転する鏡 : 鑑賞者は一見して鏡が回転していることに気付かない。それは時間の流れを意味する


 



In another space of this exhibition, bed-mattresses are spread all over the floor .
Several my father's images on the wall are 60s snapshot.
USA's brass march is played as background music.
Visitors can enjoy jumping on the bed- mattresses freely.



In Japan, 60s were the time of high economic growth.
People started enjoying the Western style that came from USA.
Japanese family-life were also colored by cheap imitations of Western culture.
But it is definitely our happy memory of 60s.



鑑賞者は靴を脱いで、部屋中に敷き詰めたマットレスの上で、誰にも叱られることなく自由にジャンプできる
BGMにスタンダードのブラス・マーチが流れる



パーマネント・ルーム

1999
現代美術製作所/ 東京


 生きている限り物事に永遠は無い。瞬間も無い。
一瞬一瞬はものすごいスピードで常に過去になって行く。
「今」と思った瞬間、それはすでに過去の記憶になり、絶えずたくさんの記憶を失い続けている。
そして、そうやって100年も経てば、今生きている私たち全ての記憶は消える。
残るのはいろいろな形の記録だけだ。
私たちが亡くなった後も、日々の合間合間に残した断片的な記録はつなぎ合わされ、時に不確かな事実としてそれぞれが生きてきたストーリーを連想させるのだろう。
しかしそれらのリアリティーは憶測と断定でしかない。
個々の人生の姿はそれぞれの記憶によってのみ構成されるからだ。

 記録の手段のひとつに写真がある。人は何故写真を撮るのだろうか。
写真が生まれたときから写真は芸術である前に、記録と記憶をとどめておくための道具として私たちの日常に存在し続けている。日常は変化し続け、常に何かを失い続けなければならない時の流れの中で、永遠など存在しないことを本能的に知っている私たちにとって、写真を撮ることは無情に流れる時間を一瞬止めて、失いたくない記憶をその中に封じ込めようとする作業なのかも知れない。

私たちが写真を目にするとき、写真に写り込んでいるのは、撮る側の記憶なのだということを私は非常に重要に感じる。つまりそこに写り込んでいる記録としての被写体そのものよりも、むしろ撮る側の意図や視点に惹きつけられるのだ。
私はしばしば家族の古い写真を作品に用いる。興味深いことに、年月を経た古い写真を私の作品として昇華させる作業は、アルバムの中の世界にカメラを向けて新たに写真を撮っているような感覚の行為である。
アルバムの中の世界は、私自身の意思がまったく介在していないことによって、私のインスピレーションは記憶に縛られること無く、無数の新しいイメージとスタイルがフィクションのように私の目の前にその存在を現す。それらに私自身が撮った写真—— 例えば日常の中の非日常的な違和感のある記録写真——を混ぜ合わせ、音楽や様々な要素を組み合わることで、記憶、記録、撮る側の意図が複雑に交差する空間が生まれる。
そこには写真という二次元の記録とは違う、ドキュメントのようでもありフィクションのようでもあるような一つのムードが存在し始め、人が足を踏み入れることの出来る三次元のドラマとして、封印された過去のものたちに無限の可能性を持たせることが出来る。
そして写真の持つ過去の重みは剥がれ落ち、それらが記録なのかフィクションなのかは既に問題では無くなり、そこに写りこんでいる本質のみが提示されてくるように見えるのだ。