Midori Mitamura

三田村光土里

ジェンダーについてのあれこれ

Apr.15.2019 

 

新学期がスタートして、この一週間は、非常勤講師を務めるふたつの美術大学と美術専門学校で、それぞれ授業が始まった。

大学の一つは女子大だが、共学校も学生数は圧倒的に女子が多い。今朝は女子大の授業に向かう途中、スマホを眺めながら、東京大学入学式での上野千鶴子氏の祝辞についての話題をついつい追ってしまった。私自身も昨年から、女性のための実験的な美術系サークルを、友人の美術作家の岡田裕子さんと美学校で始めたばかりで、その後、奇しくも、あいちトリエンナーレのアーティスト及び関係者の男女比率や、次々とアート界でもジェンダー・バイアスについての問題提起がなされる背景には、必然的な潮流を感じざるを得ない。それまでの私は、自分自身が女性でありながら、ジェンダーの論議には案外と無自覚でいたからだ。

特に上野氏の祝辞についてはテレビでも紹介され、昨夜の情報バラエティでは、木村太郎氏が「戦うための方法が示されていない」と批判的な感想を述べていたが、私はそれを聞いたとき、世の中のジェンダー・バイアスについての議論や取り組みに対して、このところ自分の中で、もやもやとしていた疑問のようなものが何なのか、ぼんやりだが見えてきたような気がした。

それは、男性と女性が同じ権利を得るのは然るべきこととしても、男女同等のゴールは、男性が男性のために作ってきた男性社会の「競う」「戦う」「勝つ」という価値観の中で、女性が同じように、「戦う」ことなのだろうか、という疑問だ。政治にしろ、経済にしろ、男性社会というものが築いてきた世界は、個々の男性の資質は別にして、「勝ち負け」の価値観が基準になり、戦争や経済至上主義、格差社会を生み出してきたのではないか?もちろんこれは、生物学的に自分の遺伝子を少しでも多く優位に継承するという、動物としての本能から導かれた社会構造で、古代では男性は狩猟を、女性は採集、農耕、子育てを分担しながら発達してきた家族形態の進化系に他ならない。狩猟や略奪は格闘であり命がけの勝負なのに対し、採集や農耕、子育ては協力し合うことで成り立ち、勝ち負けを競ってはいられない。現代社会に置き換えれば、育児、介護といった、女性が主に家庭内で担ってきた仕事も、勝ち負けや競うでことでは成り立たないだろう。

排他的な男性社会の中で、男性と同じように「勝ち負け」を競い、相手を論破し合うような骨の折れるやり方以外に、女性的な価値観で作り出される新しい社会は生まれないものだろうか。女性的な価値観とは、勝ち負けでなく、「寛容」し「育てる」ことだと思う。男性的に「戦う」社会の価値観を女性も継承していくだけであれば、たとえ政治家の男女比が同じになり女性の首相が生まれても、男性社会的な「勝ち負け」の社会構造が維持されるだけで、世の中の本質的な問題の解決にはならないかもしれない。

では芸術の世界はどうか。芸術は本来、観ること創ることを楽しみ、人間の日常を豊かにしてくれるものだ。しかし、いつの間にか芸術の世界の主流は、どこか勝ち負けを競っているレースようにも見える。国際展やコンペに選ばれるか、有能な画商に作品を扱ってもらえるか、名声や富を生み出すかどうかに関心が集まり、私自身も長い間、そこで一喜一憂してしまっていたように思う。芸術家にとって、個人の作品の良し悪しなど競い合えるはずのものではなく、競い合っているのは、作り終わった作品に対する世間の評価なのだ。現代アートの中心もまた、政治や経済のように、男性社会的な思考の上に形成されてきたものであろう。

芸術に限らず表現の趣向は自由で幅広く、多様な表現メディアがある現代で、才能の方向性も様々だ。私の感じる限り、現代美術に知識や関心がある美大生はむしろ少数派で、中でも男性社会的な現代アートのコンテクストに表現の場所を求める女性の数は、もっと絞られるように思う。そういう意味では、国際展の男女比率で男性が多いのは不自然ではないし、仮に美術界の構造的なジェンダー・バイアスがあったとしても、キュレーターの直接的なフィスターにバイアスがかかっているとは想定できない。

そうであっても、現代アートが担う、現代社会への問題提起の表出方法として、男女比を等しくするコンセプトには、大きな意味があると思う。議論は始まったばかり。新しいことが始まる時には、論破したいだけの人も多い(特に男性に多い)。考えてから行動するのと行動してから考えるのと、どちらもそれぞれに必要な思考だが、所詮アートなのだし、まずはやってみてから考えればよいと思う。

 

Till We Meet Again

Feb 24.2019

今日は知人の四十九日の法要に参列した。

彼女は、6年前、私の"Till We Meet Again" という映像インスタレーション作品のためにオリジナルのアロマをプロデュースしてくれたアロマセラピストであり、その前には作品を買ってくれたコレクターでもあった。
それほど親しく頻繁に会う間柄ではなかったが、彼女にブレンドしてもらったTill We Meet Againの香りは、レシピを教わって、今も私自身の香りとして、日々身につけている。

以前、とても親身になってくださったのにその意向に素直に応じられなかった時期があり、がっかりさせてしまったかもしれないと長い間気がかりなままでいた。

亡くなる2ヶ月ほど前に、Facebookで「いいね」を押されたことで、ふと思い立ってメールで挨拶程度のやり取りをしていた。しかし、余命を宣告されるほどのご病気だとは知らずにいた。周囲にも明かしていなかったとのことだった。

 急逝したと一報を受けたとき、私はインフルエンザの高熱で実家の床に臥していたが、気持ちを落ち着けるためにTill We Meet Againのアロマの小瓶を取り出し、枕元で嗅いだ。
この香りは、いつもパースに入れて持ち歩いている私のお守りなのだ。
今日の法要にも、もちろんこのTill We Meet Againを身につけて参列した。


 歳を重ねることで、離れて暮らす家族や友人とも、あと人生のうち何度会えるのだろうかと考えるようになって制作したこの映像作品では、彼女にブレンドしてもらったアロマオイルの香りで空間を満たして、記憶に寄り添う香りという存在の親密さを、友人との再会の場面の会話の連続に重ね合わせた。

おそらくこの先、健康で生きられていたとしても、歳とともに、できないこと、訪れられない場所が徐々に増えていくのだろう。

環境も変わるだろうし、自分がどこで何をするのかも、終の棲家がどこかもまだわからないけれど、この香りはきっと生涯私のそばにいる。

先に旅立っていった彼女との関係は、私の一番近くで不思議と長く続くのでしょう。また会う日まで。

 


 

 

  Free As a Bird

Sep 23.2018

グランカナリアでの最後の日曜日。

一人ギャラリー空間で過ごした後、部屋でのんびりすることにした。

作品が出来上がると、作品とスペースと人とのお別れだけが待っている。

また次の場所に旅立たなくてはならなくて寂しくなる。

マニュエルにそれを言うと、残される側の気持ちを想像するかい?と聞かれた。

確かに、私はいつも去ってばかりいる。

同じ場所に根を張って、何かを受け入れて、それが切り取られて離れていく気持ちを、私はわかっていない。

自分ばかりがセンチになってはいられない。



日本にいると、最近は誰かにとっての「先生」と呼ばれるようになって、本来の自分から一番遠い呼ばれ方に不自然な居心地でいる。

学生には、教えることはしない、手伝うだけ、といつも最初に言っているけど、人から管理されるのが嫌いなのに、授業をするとなると、変な責任感が働き始めて人を管理しようとしているかもしれない。

本来の自分からどんどん遠ざかってしまうみたい。悪いことに、それが作品の発想にも影響してしまいそう。

 

 

なので、日本に帰ったら、試しに人や場を管理しようとするのを一切やめてみようと思う。

 

 

 Sep 7. 2018


ギャラリーのオーナーのマニュエルが、今回のわたしの作品展
”If not here, then I’m somehwere else"に寄せて、ビートルズの
”Free As a Bird”という歌を引用してくれた。

ビートルズが1970年に解散後、ジョン・レノンが1980年に亡くなり、その後発見されたジョンの録音テープを元に他の3人のメンバーが完成させて1995年に発表した、言わばビートルズ最後の曲。

もともと録音が悪い上に、抽象的な歌詞にポールが解釈を加え、和訳の意訳もかなり様々で、ジョンの真意は聴くものそれぞれに委ねられる。

わたしの解釈は、
(ヨーコとの)甘い生活はいつの間にか、なりをひそめ、鳥のように自由になりたい。自由だった時期もあったのにね。けど、やっぱり家(ヨーコ)が自分の帰る場所、鳥のように自由になるなんて二の次さ。


という、倦怠期の自虐的な葛藤を描いた一曲。もちろん、ヨーコでなく、ビートルズのメンバーだと解釈するとまた違った趣がある。

 

でも、こういうジョンの現実的な私生活について憶測しないで、純粋に自分の身に当てはめると、せつなくなって涙がほろり。
わたしの自由は頼りなくて、甘美なようでさびしくて、ふわふわ漂っている。
どこかに帰りたくて、必死で飛んでいるけど、どこに帰ればいいのかもわかってない。きっと帰りたい場所もないのでしょう。

 

きっと自由な鳥などいない。  

人は自由を求めて、自由を恐れるのでしょう。

 

Manuel Ojeda quoted a song of the Beatles  ”Free As a Bird” for my exhibition at his gallery ”If not here, then I’m somewhere else".

The Beatles broke up in 1970, John Lennon died in 1980, and then they found this song in the tape he left. Three other members completed this song and was released in 1995. This means the song was the last song the Beatles produced all together.

Although the tape was poor quality, Paul added his interpretation into abstract lyrics. What is more, Japanese translations are also interpreted into various expressions. The true meanings of what John wanted to say was up to each listener.

My interpretation is,

Even though the sweet life (with Yoko) had gone and he wants to be free as a bird, his home (Yoko) is the place to go back to. To be free as a bird is of secondary importance.

It sounds like relating to self‐ridicule about going through a rough patch. However, if it was relating to the Beatles, we would enjoy other interpretations.

On the other hand, listening to this music without concerning John's private, when it came to my own life it moved me to tears sentimentally. My freedom is floating unstably. It seems sweet but lonesome.

I'm flying back to somewhere  as desiring going home. But  I don't know where it is.

I'm flying back to somewhere as desiring going home. But I don't know where it is. I may not know where I want to go back to. 

I'm flying back to somewhere  as desiring going home. But  I don't know where it is.
I may not know where I want to go back to.
I may not know where is the place I want to go back to.

No birds were free.
We are afraid of being free while looking for freedom.

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